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「ソムリエの資格を取りたいそうだが?」

(うぇッ?!)
従業員のシフト表を支配人室に届けに行った慶次は、シフト表から視線を上げ
ることなくおもむろにそう松永から訊ねられ、内心で素っ頓狂な声を上げてし
まった。
地獄耳というか、厨房内で腕を振るう四人のシェフや、人の良いカメリエーネ
長との折り合いが悪い割には、松永の情報収集能力には舌を巻く。
そうでなければ、腕はいいがプライドが高く、一癖も二癖もあるシェフばかり
が集まるこのリストランテの支配人として務まらないのだろうが、一介の皿洗
いバイトから昇格し、ようやく給仕の仕事にも慣れてきた慶次にとっては、目
の前の男の、伺い知れぬ底の深さを把握することなど到底できはしない。

「あー…その、」

「ここのセラーのワインは全て、テニメンティだ。他所のワインを比べる必要
はないと思うがね」
シフト表に目を通し終えた松永は、シフトそのものには特に物言いをつけるこ
となく、表を挟んだクリップボードを慶次へと差し返した。

「テニ…?」
聞き慣れない単語に慶次が首を傾げると、松永はやれやれといいたげに息を吐
き、後ろに撫で付けた襟足までの黒髪に混じる白髪が目立つ年齢の割には、機
敏な動作でさっと椅子から立ち上がる。

腕を緩く後ろに回し、背筋の伸びた姿を目にするだけで、慶次も身が引き締ま
るような気がするから不思議だ。とはいえ、松永のこういうスタイルを目にす
るときは大抵、厭味か叱責かのどちらかだから、余計に身構えてしまうだけな
のかも知れないが。

「イタリアのピエモンテ州にあるカンティーナと契約して、ワインを直輸入し
ているのだよ。知らなかったのかね?少年」

少年、と松永が言うときには、決まって慶次を侮蔑する意味が含まれていた。
大学生にもなりながら、少年などと呼ばれるのはあからさまに馬鹿にされてい
ることがわかるだけに、慶次もムッとした表情になる。
「生憎、こちとらバイトで皿洗いから始めて、給仕になったのも日が浅いんで
ね。ワインがどこから仕入れられてるかなんて、知るわけねーだろっ」

売り言葉に買い言葉とばかり、慶次は松永に食ってかかる。
「だいたい、そういう知識もお客へのサービスに繋がるから、食前酒や食事に
合うワインの銘柄ぐらいは勉強しようと思ったんであって、あんたに厭味を言
われる筋合いじゃねぇし!」

外でのワインの飲み歩きにも付き合ってくれた元親や政宗には、少しは勉強熱
心になったところを褒められていただけに、松永の反応に慶次は納得できなかっ
た。

支配人は、僅かに片側の眉を跳ね上げ、反抗的な一介の給仕を一瞥する。

「いいかね、少年。食というものは生きるために必要な欲望の最たるものであ
り、だからこそ万人の純粋な楽しみにもなり得る。余計な知識の押し売りや薀
蓄を聞かされるために、客はこの店へ足を運ぶのではないよ。店のワインを知
り尽くしてもいないのに、他のワインを飲み歩く浅薄さこそ、客にとってはい
い迷惑にもなると思うが」

辛辣そのものの言葉を操れば、この店の右に出る者はいない松永の口撃に、慶
次は俄然旗色が悪くなる。

「う…、だ、だから!ちょっとは勉強しようって、思って…」

「客の好みやその日に注文するコースメニューに合う飲み物には、給仕の嗜好
が介在されるべきではない。客は飲みたいものを飲む。もし、テーブルを案内
した給仕に選択を委ねられた場合、使われる食材、スパイス、来店した時間や
客の構成、それらを総合し的確な判断のもとに選ばれるべきだろう。そうは思
わんかね?」

「うぐぐ…、」
更に理詰めで言われれば、慶次はぐうの音もでなくなって、悔しげに唸った。
これでも店のために少しは役に立つ知識を覚えようと思ったのだが、とんだ藪
蛇になったものだ。
とはいえ、松永の言うことも尤もであり、反論の余地がない。

「あー、もう…わかったよ。俺が悪かったんだよな、余計なことして。あんた
が気に入らないのなら   」

 がっくりと慶次が肩を落とすと、ふ、と松永はほんの僅かに口の端を緩めた。
「カメリエーネとしての自覚が出てきたことは結構。加えてソムリエの知識や
資格を無駄だとまでは言わないが、それが君の自己満足で終わらないことを、
証明して貰おうか」